瀬戸内徒然 古の城跡巡り 第一弾

家を建てたり、持ったりしますと「いよいよ一国一城の主よの」「城持ちになったなぁ~」と言われたり、自らも「〇〇家」を意識したり、

とかく 「家=武将」的な言い方がされたりします。

 

日本には現存12城天守も残っており、その内4つの城が四国にあるのです。

(丸亀城・松山城・宇和島城・高知城)

*現存12城とは

江戸時代までに建てられ、修復されながら現在まで残っている天守のこと。徳川幕府による一国一城令と武家諸法度、明治の廃城令、昭和の第二次世界大戦を経て、残った12基の天守が「現存12天守」と呼ばれています。

さて、自分には年齢性別に関係なく多くの師匠や先生が周囲に居られまして(ご本人の自覚の有無に関わらず)、その中にやはり居られました「城好き」が。

古今東西現存12城も制覇し、その他有名な城跡、復元城も巡られた猛者が。

城は街中にある城もあれば、交通の不便な山城だったり川や海に面した城だったりと、その立地は用途により様々。

現在のイメージの、石垣や天守作りなんてのはまだまだ近代で、ソレ以前は土盛り、土切り下げ、土塀、板塀の砦みたいなモノまで城なので、それはそれは全国多数城跡はあるのです。

 

 

松山市北条 宅並山城山頂より→

昨年令和6年の正月頃の事でございます。

城好き師匠との会話で

自分「では著名な所はほぼ制覇ですか?」

師匠「陸奥弘前城に行けたので現存12城は制覇じゃな」

自分「織田信長最後の居城 安土城は如何?」

師匠「あれは・・・城跡よな!?近くの彦根城は行ったが・・・安土は燃やされたとか何とか・・・確かに信長最後の・・・結構田舎っぽいとこで宿泊先とか・・・入れるのか!?」

自分「少しずつ整備しているようです。割と京都へも高速移動で近いですし、下道移動でも琵琶湖大橋を渡り、途中越えするとすぐに大原三千院か鞍馬に出れますが」

師匠「京都!祇園!京料理!呑めるじゃないか!」

はいっ!これで安土城登城決定です。

 

 

安土城イメージ図→

 

年々歳をとり体力も落ちて行く今日この頃、何年先なんて言ってはいけません。即行動と言うわけで令和6年5月決行と相成りました。

仕事も遊びも段取り八分が本分!

メンバー確保、行程から三食、宿泊先の予約、現地案内人の確保、そして旅の栞作成とドンドン進めていきます。

偶々学生時代の後輩が安土町に住んでることが判明し急遽電話

「〇〇君!安土城近いか!?」

「あ~犬の散歩にいつも城の下まで行ってますが」

「犬は連れてこなくていいから、君だけ来てくれ!」(案内人確保)

 

登城して参りました。

大手門から登城、発掘した階段の石段の1つ1つの高さが高い!で幅員の広さ!まさに魅せる城!

 

 

 

 

 

 

 

階段途中に雛壇のように歴史に名だたる武将の屋敷跡の看板。(屋敷はありませんが基礎の束石は一部残ってます)

尾張美濃地区から峠を越えて安土に至り、琵琶湖を下り京に入り、川を下れば堺に至る要衝地だったのでしょうね。

戦う城、魅せる城、行政機関の城、目的はそれぞれ、それに合せて立地も仕様も多様です。

しかし整備途中の城跡だけに、何もありません。(通用口の百々橋口に三重塔だけひっそりと)

往時天守跡から見て下に琵琶湖があったそうですが、今は干拓もあり琵琶湖は少し遠くに見え・・・う~ん木が伸びてよく見えません・・・。

まま、信長や戦国の英傑が見た景色の一端を感じた気がした安土登城でした。

今後更に発掘や整備が進む事を願わずにおれない名城だと思います。

 

大汗が吹いた登城後、運転手以外はビール解禁にしましたが、

なんと皆さん「夜まで飲まん!我慢だ!待つ!」

その夜の京都での食事会の一杯目の乾杯、大変美味しく頂きました。

 

 

そして会話は「来年はどこの城跡へ!?」

ああ・・・来年も(令和7年)行くのですね・・・

まずは元気に健康で!!

 

目的に応じた立地に仕様、これは現在にも通ずるモノ。10年20年30年スパンで見透すつもりで費用対効果を考える、大事な事ですね。

愛媛エステートは、なるべくお客さんの不安を無くすよう説明と納得のいく提案を目指していきます。

その土地地域の人、不動産、を理解し何が一番適しているかの有効利用を想定したり、逆に目標を達成するためにはその不動産をどうすれば良いかの提案を、
行政、法令、経済、慣習、マインド、とあらゆる観点から見つめて参ります。

昨年に徒然した第一弾でした、つまり第二弾がある前振りです(笑)

 

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